はじめに ここでテーマにするのは、個々の生き物の生態や、生態学全般ではなく、生態系の 捉え方と、エコロジー(生態系の保護を基本にした自然保護)の概論です。 エコロジーと環境保全 エコロジーとは本来、生態学や、生態系という言葉で、生態系の保護という、究極の自然保護を 意味します。しかし、現在ではパッケージに再生紙を使用しただけの商品や、一人1億円を超す エコツアーにまで、「エコ」という言葉が使われるという、非常に嘆かわしいご時世です。金儲けが 善で、自分さえ良ければ、違法でなければ、バレなければ何をしてもいいという風潮の中では、 エコロジーは死語となりつつあります。 エコロジーとエコ産業 エコロジーとは本来究極の環境保全であり、金儲けとは全く無縁のものです。 しかし、現代の社会には「エコ」という言葉が氾濫し、何でもかんでも「エコ」が付けられています。 少し燃費が良かったり、消費電力が少なかったりするだけで、エコという言葉が使用されたり、 全く環境に配慮されていなくても、恣意的理由によりこじつけのエコ商品があったりします。 産業と環境保全とは本来対極的なものであり、エコビジネスには何かしらの脱法的な詐欺商法的 部分が存在していると言っても過言ではありません。 勿論、ISO××××なども例外ではなく、1部分エコロジーなだけです。 エコロジーとは貧乏生活そのものであり、人々の嫌いな石器時代に戻ることなのです。 不便で格好悪いことです。 生態系と人間(人間はエイリアン) 生態系の模式図の一つに生態系のピラミットがありますが、最近それに人類が書き加えられる 傾向が増えています。地球全体規模での生態系(ガイア)や、自然に人類の与える影響が 余りにも大きいために、当然の事ではあるのですが、まだまだその影響の大きさから考えると、 過小な表現が主流に思えます。 生態系のピラミットに時間軸がなく3次元であることも問題です。 生態系は4次元で動いています。 地球温暖化、オゾンホール、環境汚染、戦争、森林伐採、地下水の枯渇、人口増加による 環境破壊など、加速度的に環境破壊が進んでいるなかで、もはや人類が生態系の一員の 位置から、完全なエイリアン(侵略者)と、捉え直す状況にあります。 そして、近い将来自然の生態系の恩恵を受けられずに、滅亡することは明らかです。 そのことが、更に人間社会を刹那的にし、投げやりで、無責任な利己的衝動へと 加速させているようです。 エイリアンの始まりと終わり 人類が人類としてサルと一線を隔すのは、火を道具として、確立した事に始まり、同時に エイリアンとしての第1歩を踏み出す事になったといえます。 火を利用する事で、食料の範囲が大きく広がり、食料の備蓄が可能となり、外敵からの脅威を 軽減し、知能の発達や文化や言語が確立し、近世の産業革命に至り、完全な環境破壊型 エイリアンへと変貌しました。貨幣経済が、貧富の差を拡大し資本主義が格差の容認をし、 議会制民主主義が、多数派の利益を優先し、人間社会さえも破壊しようとしている。 気に入らなければ戦争を仕掛け社会や文化を兵器で破壊する。狂気的な行動に未だ 気付いていない人達が余りにも多すぎます。 人類は社会性の生き物であり、社会の健全な発達無くしてはその繁栄は担保されない。しかし、 根強い人種差別意識や宗教の対立による戦争などにより、人間社会自体の存続が危ぶまれると 同時に、自然環境の破壊による人類の滅亡へのタイムリミットは迫りつつある。 特に、一神教による他の宗教の否定は民主主義に反し、摩擦を大きくしているに過ぎない。 少しでも長く、人類の存続を図るにはそういった、あらゆる問題の解決なしには、実現は 不可能であり、単なる科学技術の発達では根本的な解決には至らず、諸刃の刃である 科学技術が却って混乱を大きくする。 海洋資源の枯渇 日本の漁獲量は1990年代に入り、急速に低下し始めた。しかしそれ以前(70年代)に 沿岸漁業は低迷を初め、遠洋漁業で漁獲量を確保してきたが、200海里問題で 遠洋漁業が衰退し、資源の枯渇が明確になってきた。 海洋資源の枯渇の原因は、冷蔵輸送や冷凍技術の発達により、地球上のどこからでも漁獲物が 輸送可能になった事で、乱獲が始まったこと以外にない。 古代の遺跡から大型魚類の骨が見つかったり、大量の獣骨が見つかっている事から、古代の 自然の豊かさが、想像できるし、私の子供の頃と現在の自然を見比べると自然の生態系は想像 以上に疲弊しているといわざるを得ない。その原因は正しく、人間の存在である事は、 否定しがたい。 北海道の海の例では、有機鉄の不足で、資源の回復ができないことが解ってきました。 この有機鉄は主に魚の身体の中に保持されてきたと考えられ、回遊する鮭などにより 補充されていたものが人間により捕獲され、持ち去られたために減少したと考えられます。 これまでの生態学の誤り これまでの生態学では、自然の生態系はかなりの再生産能力があると考えられていたが、 前項の「海洋資源の枯渇」で説明したように、此までの、生態学での再生産の認識が、 甘かったことが理解いたけたと思います。則ち、再生産に必要なミネラルが、物理的な自然の 中には少量しか存在せずに、生き物の体内にその殆どが蓄積され循環し、生態系が 維持されていたことが、生態系の疲弊のスピードから推測できます。 また、生態系の維持にも多大のエネルギーが、必要である事が想像できます。 元々、自然の生態系は人間の参加なく発達し、太陽エネルギーを生物の形で蓄積し複雑化 させることで、安定する方向に進化し、生態系の中に生き物の体として蓄積されててきたのです。 しかし人類が進出し、生態系の一員としてではなく、破壊者として全世界に分散して 食い散らかし始めることにより、自然の生態系は日に日に衰えていきました。 個々の生態系は単独では存在することがなく、地球上のあらゆる場所で、人間の影響を受け、 衰退しています。 生態学の誤りの根源は、先ず博物学の「種」の概念にあります。 種の変異が、ある一定の範囲内にあり、同じ生態を持つという固定観念から始まっています。 これは、西洋科学の原点が、宗教的な神が、生き物を創造したという神話から 抜けきれないためです。 私が、西表に来て感じたことは、非常に個体変異が大きく、種の範囲が曖昧で、種の概念を 自然のいきものの現状に合わせることが合理的だと感じたからです。 いきものは進化しています。当然のことながら、種の分化の途中にあるものや人類の 把握してない個体変異があって当然なのです。 そういう意味でも、生態学は不完全で、途上の状態です。 環境保全の神話 此までの説明で、自然との共生や調和といったことが、空論であり、神話的存在であることを 理解して頂けたこと思います。 環境保全の前に人権問題や世界平和が必要!! 環境問題の原点は命の尊さにあると考えます。 全ての命は同じように尊いという原点から始める必要があります。 そして、その原点を尊重し実現するためには、人間界での人権問題やそれに派生した、 反戦や差別、格差の是正などの人権問題の解決なしには、環境問題の解決や進展は あり得ません。 なぜなら、自然のいきもの達には、生存権や居住権は元より、言語のない彼らには、 何の法的権利や発言権も存在しないからです。 人間社会でのそうした問題解決がないかぎり、人間の勝手な環境対策でしかありません。 最近の近自然型開発は見た目や、人間の目線からは、自然回復の一環と見えるのかも 知れませんが、自然の生態系と比べれば、単なる人工物でしかなく、建築家達の傲り高ぶりの 結果でしかありません。名付けて、自然型庭園。 もっと、本物の自然をじっくり観察するかとが必要です。自然は教科書の中にはなく、目の前の 自然にしか存在しません。といっても、我が国では本物の自然は、ある意味ではもう無いかも 知れません。辛うじて不完全ながら有るとすれば、西表や知床など限られた場所になるでしょう。 ディープエコロジーとナチュラリズミスト(ナチュラリズミ人) ディープエコロジーとは、精神面を含めたエコロジーで、本来のエコロジーを実現するために 必要な精神論を含めた科学的、論理的なエコロジー本来のエコロジーと言えます。 ですから、保全型、利用型の緩やかな環境破壊型の普通のエコロジーはこれには含まれません。 ましてや、エコ産業など、全くお門違いです。 しかし、基本的には正しいエコでも現実的には、可成り厳しい面が多く、科学的データーも 不足している現在、基本的な考え方の一つにすぎません。 そこで、私の提唱するのが、ナチュラリズミスト(造語)です。ナチュラリズムを中心にして 行こうという考え方です。 ナチュラリストやエコロジストといった堅苦しいものではなく、ナチュラリズム(自然主義や、 自然尊重主義)が、今までの人類に余りにも欠けていた考え方ではないかと思います。 自然保護と博愛主義、文化尊重を基本とする生き方といえます。 結論 人類は出口のない迷路に填ったようなものです。 できるだけ、自然へ影響を少なくするしか人類の執る道はないでしょう。 そのためには、人類の課題である、非戦、人権問題の解決、民主主義の確立が必要で、 急務だと考えます。 民主主義に疑問もありますが。 それが、唯一の人類の絶滅を遠のかせる道だ思います。 最後まで、目を通して頂き有難うございます。 衣斐継一 2010年7月25日修正 |